日本CHRO協会発行CHRO FORUM第25号(2021年6月号)

※本記事は、日本CHRO協会発行CHRO FORUMのために書き下ろされた記事の再掲載です


 

第1回のコラムでは、パンデミック後の「ウォーフォータレント」時代のタレントマネジメントの姿を概観した。第2回から第6回は、第1回で取り上げた「重要性を増す5つのテーマ」について詳細を紹介する。今回は、EVP(従業員価値提案)の確立について取り扱う。

 

日本企業のエンゲージメントの状況

 

近年、注目されている概念にエンゲージメントがある。英語では「制約、約束、契約」などの意味をもつ言葉であるが、人事領域では「企業と社員が相互に提供する価値に合意し、社員の自発的な貢献意欲が高まっている状態を示す概念」と言える。このエンゲージメントだが、日本企業はグローバル企業と比較して一般的に低い傾向がある。マーサーが提供するエンゲージメントサーベイおいても、「自分には、会社の成功を支援するために通常期待される以上のことをしようという熱意がある」をはじめとする、エンゲージメントを直接的に測定する6つの設問全てにおいて、日本全産業平均はグローバル全産業平均を下回る結果となっている。

 

日本企業を取り巻く環境の変化

 

日本企業のエンゲージメントが低い背景には、日本企業が人材の出入りを前提とせず、社内に閉じたコミュニティ管理を重視したマネジメントを行ってきたことが挙げられる。そのような状況下では、エンゲージメント低下はパフォーマンスや生産性への影響は懸念されるものの、人材流出によりビジネスオペレーションに深刻なダメージを与えるリスクは低いため、重要性は認識されつつも、優先度が上がらない傾向にあった。そのため、エンゲージメントを高めるための本格的な投資を行ってこなかった企業が多いことが、エンゲージメントサーベイの結果に表れていると推察できる。

しかし、企業の競争優位を支えるコア人材に関する中途採用市場が確立する中、状況は変わってきた。例えば、多くの業界において重要度が高まるデジタル系のエンジニアについては、需要に対して社内での供給が追い付かず、中途採用市場での調達が当たり前になっている。時間軸の差こそあれ、ナレッジワーカーの仕事は同様の傾向が見られる。企業は、従来は補完的な位置付けであった中途採用を積極活用し、人材の出入りを前提にマネジメントを組み立てる必要性に迫られている。そのような中、企業は、採用、そして入社後についても社員に選ばれ続ける必要があり、エンゲージメントを高めることが重要になる。

2020年の新型コロナウィルス感染拡大防止に伴う働き方改革も、エンゲージメントの重要性を改めて認識する契機となった。リモートワークを推進し社員同士の接点が少なくなる中、企業は社員がエンゲージメント高く働ける環境の構築に迫られた。その中で、改めて日本企業の人材マネジメントの本質的な課題解決に向けた動きが加速し、ジョブ型雇用への関心の高まりにも繋がったと考察する。

 

EVP(Employee Value Proposition)とは

 

エンゲージメントを高める上では、企業は従業員に対する提供価値、すなわちEVP(Employee Value Proposition)を明示し、合意することが重要となる。マーサーでは、EVPを処遇(契約面)、キャリア・生活の質(経験面)、目的意識(感情面)のフレームワークで整理している。従来の日本の新卒採用においては、総合職、横並び初任給といた形で、キャリアや報酬等のEVPを必ずしも明解にしないまま採用を進めることが一般的であった。多くの現場で、入社後ギャップが発生していたが、退職しないことが前提であったため、時間をかけて納得形成を行うことが可能であった。しかし、人材の出入りが前提となる場合は、曖昧なEVPの提示は、入社後の人材流出リスクに直結する。入社後3年の退職率が高まることに問題意識を持つ企業は、若手社員の志向だけではなく、自社のEVP提示に問題があるケースが多いように感じる。

 

 

図表1 EVP : Employee Value Proposition(従業員価値提案)

Employee Value Proposition(従業員価値提案)

EVPを確立する上で重要なポイント

 

EVPの確立においては、具体化と形式知化がポイントなる。人材の出入りが前提となる場合、入社後の時間をかけての納得形成は流出リスクが高いため、入社前の自社を深く知らない人材に対して、EVPを提示・合意する必要がある。そのためには、採用ブランディングで提示するレベルに留めず、入社後にギャップが発生しない説明が可能なレベルまで具体化・形式知化しておくことが重要になる。

具体化と形式知化を進める上では、まずは、社内外の自社のターゲット人材の志向を把握することが出発点となる。社内のターゲット人材を、職種・年代等の軸で細かく分析を進めると、一律的な対応が困難になる場合が多い。例えば、将来的な成長に向けて重要なデジタル系のエンジニアと、現在収益の柱である事業を支えるエンジニアではキャリアや報酬に対する志向が異なる。一方で、会社の理念や仕事の意義に対する共感は、職種や年代に関わらず広く共通している、という状況に直面し得る。また、社内の人材は一定水準以上が支払われていることもあり報酬を重視していないが、労働市場で自社に関心を持つ人材は報酬を重視しているということも起こり得る。必要な粒度でターゲット人材を分析した上で、共通すること・共通しないことを整理しておくことが肝心となる。

次に、自社の人材マネジメントの制度・仕組みを把握することが重要である。EVPは採用に向けた一時的な訴求では意味がなく、入社後も実感し続ける必要がある。そのためには、EVPとして提示する内容が自社の制度・仕組みと整合性があることが必要だ。例えば、「社員が自身の選択でキャリアを形成できる」ことに合意して入社したが、「総合職をゼネラルローテーションで育成する」仕組みが待っていると、社員は価値を実感し続けることが難しくなる。EVPを確立する上では、自社の制度・仕組みを把握し、必要に応じてその変革を視野に入れることが重要になる。

三点目に、EVPの確立に要するコストについて言及したい。目的意識(感情面)、会社の果たすべき使命、社会・顧客に提供している価値、そのために社員に求める行動様式等について、多くの社員が共感している状況を作るためには時間というコストが発生する。処遇(契約面)、報酬や福利厚生については、時間は短縮可能だが、キャッシュアウトは避けられない。例えば、ベンチャー企業であれば、創業社長のエネルギーと対象社員が少ないこともあり目的意識の訴求は行いやすいが、処遇の訴求は短期的なキャッシュアウトに耐えられないため長期インセンティブに頼らざるを得ない、という状況は発生し得る。自社の事業特性や成長ステージに基づき、許容できるコストを踏まえることが重要となる。

 

EVPとジョブ型雇用

 

人材の出入りが前提となる中、企業はEVPを具体化・明示した上で社員と合意し、継続的に高いエンゲージメントで活躍する状況を構築する必要がある。近年注目が高まるジョブ型雇用は、EVPの要素である「従事する業務≒キャリア」と「報酬」に対して、企業と社員が合意することを前提としたものであり、エンゲージメント向上に繋がる取り組みという側面もある。しかし、EVPの観点では、キャリアや報酬だけでは不十分であり、目的意識や生活の質まで視野を広げる必要がある。ジョブ型雇用ありきで自社に「合う・合わない」の議論を目にする機会があるが、本来の目的を見失わないことに加え、EVP全体の再定義の視点を加えることで、より高い成果を得られるようになると考える。

 

執筆者: 金井 恭太郎 (かない きょうたろう)

組織・人事変革コンサルティング シニアマネージャー