国内M&Aディールの新潮流 - (2) 後編:営業譲渡・転籍同意の成功要因・失敗事例

営業譲渡・転籍同意スキームの成功要因

古典的フレームワークである、衛生要因と動機付け要因で整理するのが有効である。ご存じの方も多いと思うが、衛生要因が腹落ちしないと動機づけ要因も効果が半減してしまう。ここがポイントである。あと、効果的な情報の伝達と対話の方法、日本人の不得意分野ともいわれるが、この点もチャレンジが必要である。

なお、今回は転籍スキームに焦点を当てているが、当然HRデューデリジェンス(HRDD)のあり方も、大きく変わりつつある。この点については別の機会にお話ししたいと思う。

転籍同意における衛生要因とは

転籍同意における社員の衛生要因は、シンプルに整理できる。正社員であること、従来の報酬、福利厚生、退職金・年金が保障されている事、つまり不利益変更はない事である。

何かと思えば当たり前、「承継法と何が違うのか?」と思った方もいるだろう。しかし、ここで意図しているのは、あくまで、買い手の人事諸制度に片寄せする前提があり、移籍時には不利益変更を行わない、という保障である。雇用契約を労働協約も含めてそっくりそのまま引き継ぐ承継法とは、買い手のとる考え方が全く異なることがお分かりになろうか。

したがって、報酬の提示方法は、買い手の人事制度による報酬額に調整給のような形で上乗せする場合が出てくる。調整給は経過措置なので、毎年の昇給は調整給から繰り込むことになる。しかし、2年後に昇格した場合は、調整給は一気に消えて報酬は純増するかもしれない。それは各社員のパフォーマンス次第である。

衛生要因は報酬に止まらない。福利厚生、特に住宅関連の補助は日本では極めて重要である。現健康保険組合から脱会するから、休職時保障なども変わるかもしれない。退職金・年金制度はスキーム自体に違いがあり、移管方法や経過措置による補償方法を工夫しなければならないかもしれない。

これら幅広い処遇全般について、転籍条件の説明会、オファー時、上司による面談時に、「移籍時には不利益変更はない」と念押しする必要がある。

そして、これら幅広い処遇全般について、転籍同意者に納得頂ける緻密さで、1) 制度片寄せ移行と、2) 不利益変更を回避する経過措置を設計する。Closingまでと期限が限られているので、通常3か月くらいでやり切るのである。

大変さに見合うメリットが確実に存在する

人事部門のご担当であれば、「それは無理~」と思った方も多いだろう。実は私も最初は同感であった。しかし、完璧な就業規則や諸規定を最初から作れ、というのではない。給付条件と給付水準、コストインパクトなどの重要事項を特定できれば良いと割り切れば、設計可能である。細かな取扱いルールは、いずれ詰めて行けばよい。走りながら規定も改定し、完成度を高めて行けば良いのである。M&Aの実行に際しては、このような「意図された大雑把さ」が求められる。

代わりに得られるのは、転籍者の信頼感と転籍同意率の高さである。「転籍時の不利益変更はない」という方針を堅持し、情報を都度アップデートして、具体化のプロセスを転籍候補者・同意者にも可視化すれば、信頼関係を短期のうちに形成する事もできる。

動機づけ要因の重要性

衛生要因が整っただけでは、まだ足場が固まったにすぎない。優秀な社員が長く働いた会社を退職し、移籍するだけの理由が必要である。動機づけ要因のうち、最も優先すべきは、事業計画や将来ビジョンである。事業カーブアウトにより、買い手企業に移籍することで、どんな新しい事業機会や投資が得られるのか、できるだけ具体的に事業計画を示す必要がある。できれば、3か年の中期計画レベルの統合後の事業ビジョン、シナジー効果の切り口、アクションプラン、転籍者に期待する役割、組織体制(プロジェクト含む)などを示したい。

動機づけ要因の2つ目は、優れたリーダーのリテンションである。従来、国内M&Aでは経営者リテンションが課題とされる事はなかったと言って良い。一方、海外企業相手のディールの際には必須事項として重要視されてきた。考えてみれば当然の事で、経営者として尊敬される人材が、新社への移籍に同意することは、一般社員にとっても転籍に対する強い動機づけ要因になりうる。

もっとも、経営者の質に対する精査も必要となる。この点、最近の国内ディールでもメニューに経営者候補のアセスメントが設定される事が多くなってきた。経営マネジメントの連続性の担保と、優秀な社員のリテンションの2つの効果が期待されるためと考えられる。

衛生要因・動機づけ要因をどう伝えるか - コミュニケーションの重要性

簡単に衛生要因、動機付け要因を語ってきたが、どう効果的に伝えるかの努力が日本企業は圧倒的に足りないと感じている。外資系が何でも優れているというつもりはないが、この点については大人と子供位の意識と技術の差があり、私たちも外資系先進企業には学ぶところが多い。

コミュニケーションプランとは、「いつ、どんなメッセージを、誰から、どのように伝えるか」の全体プランである。そこにはサプライズもあって良い。日系・外資を問わずグローバル企業であれば、GHQのトップがTV会議システム等で、説明会の最初のメッセージを伝え、直接質問に答えても良いだろう。

説明会のような集合的な情報提供の場から、部門内説明、管理職との面談と組織をカスケードダウンするように説明から対話へと情報の密度・粒度を高めていく。

情報の質についても、会社のバリューのようなハイレベルから具体的な話へ、事業戦略からアクションプランへ、そして不利益変更はしない処遇保障から具体的な人事制度と処遇の移行方法へと、段階を追って、タイムリーに適任者から情報を伝えていく。

もちろん伝えるだけではだめで、疑問点や不安感に対して会社として、すみやかに回答していく。管理職を巻き込みつつ、一般社員にサポートを提案していくような対話のプロセスを構築する。その情報は集約・共有化され誰でも閲覧できるような配慮が必要になる。ここまで徹底すると、単なる情報提供ではなく、体験として転籍対象者に印象付けられ、社員の意識に変化をもたらたしていく。(チェンジマネジメント)

重要なのは一貫したメッセージを、組織全体一斉通知だけでなく組織階層の上から下へ、ハイレベルから具体的な情報へ、情報提供から対話へと意図したタイミングでシフトしていく事である。

図2:衛生要因と動機づけ要因

 

典型的な失敗事例

100%同意に近づける転籍スキームの必須要素に絞ってご紹介したが、最後に失敗事例を紹介しよう。一番に良くあるのは、衛生要因の軽視である。日本企業でも「事業カーブアウトで転籍するのだから、仕方ないでしょう?」と、経過措置も付けずに、問答無用の片寄せを行う例がある。

経営の意思決定権は買い手に留保するが、安心して転籍同意してもらえる環境をまず作り、ただし将来の処遇は人材のパフォーマンス次第であるという厳しさも伝え、ビジネスパートナーとして尊敬すべき技術や品質、販売力があれば、貴重な人材としてしっかり認めるポリシーを堅持すべきである。

ちなみに前述の企業では、一旦は必要な人数の転籍同意を得たが、その後大量退職で事業自体が停滞してしまった。転籍スキームの実行力は、その企業のM&Aに対する組織能力を測るバロメーターといえるかもしれない。そして、M&Aに対する組織能力こそ、変化の時代における企業競争力を定義する重要な要素の一つとなるだろう。


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