用意周到なM&A

手掴み感ではあるが、近年複雑なM&Aディールが増えてきていることが感じられる。以前は単一国・単一拠点の株式買収が多かったのに対し、これまでは一部のM&A巧者が手掛けていた複数カ国に跨る株式買収・資産買収あるいは株式買収と資産買収を織り交ぜた事業買収も珍しくなくなってきている。これは買主(バイヤー)としての日本企業の経験値が上がり、事業成長のために単一国での株式買収から一歩踏み出してより複雑な買収にチャレンジするケースが増えてきているためと思われる。あるいは、経験値は高くないが、多少背伸びをしてでもグローバルなオペレーションを獲得しないと、競争力を維持できないという危機感から踏み込んでいるケースもあるだろう。

ここで一度、株式買収・資産買収の論点を簡単におさらいする。株式買収と資産買収を比較した際に、大きな論点となるのが、従業員転籍とスタンドアロンイシューへの対応である。従業員は資産買収に際し、移管の対象とならないため新会社への転籍が必要である。また、スタンドアロンイシューとは、対象会社または事業が売主企業(セラー)と福利厚生制度や人事機能、その他の制度を共有しており、買収に伴ってグループ外へ出るために共有を受けられなくなる事項である。スタンドアロンイシューがあると、買収完了(クロージング)後のDay 1(新親会社体制での開始日)以降の事業が単独で立ち行かなくなる可能性がある。詳細な説明を割愛させていただくと、以上の論点は下表のように整理できる。

表:買収ストラクチャーに応じた論点整理

  株式買収 株式買収
(グループ会社傘下)
資産買収
従業員の転籍 不要 必要
福利厚生制度の新設 不要 親会社のリソースを活用している場合必要 必要
人事機能の新設 対象事業に人事機能がなければ必要

※ディールに応じて状況は様々であり、上記は典型的なケースにおける整理である

 

実際には他にもスタンドアロンイシューは存在するが、以上がDay 1に対象会社・事業を機能させるための人事における最低要件である。

冒頭に挙げた複雑なディールが珍しくなくなってきた一方、買収完了にあたって実施すべきことの難度が下がったとは言い難い。依然として株式買収・資産買収それぞれにおいて、買収完了までに必要なステップは変わることなく、また、複数の国において複数の買収スキームが発生する場合、それぞれの国における法制度や現地慣行からその数だけ対応が異なる。

当然のことながら、可能な限り必要な対応に理解を深めて買収完了に向かって円滑に諸手続きを進めるには、デューディリジェンス、あるいはそれ以降の時間を使った事前準備が鍵となる。準備にあたって、まずはどの国にどの買収スキームが当てはまるのか、その買収スキームによって従業員に転籍が必要なのか、受入拠点は存在するか。福利厚生制度、人事機能をそれぞれ制度・機能ごとに区分し、どの制度・機能がどう取り扱われ、代替制度の立ち上げが必要となるのか、受け皿となる制度があるのかの整理が肝要である。

とかく人数の少ない拠点は、優先順位の関係からデューディリジェンスのフェーズで手つかずとなりがちだが、少ない人数でもクロージングまでに係る工数は規模の大きな拠点と大きく変わることはなく、情報収集だけでも先を見越して行っておくと、あとになって数人のために多大な工数をかけずに済む。どうしても時間や人手の制約上、国の規模に応じて優先順位を付けざるを得ないケースでは、買収契約および現地の労働法上求められる必要最低限の転籍手続きのみを行い、個々のフォローアップをクロージング後に行うことも最悪可能である。ただし、その場合、対象となった従業員は離職リスクが高まるため、その中に親会社・売主企業において幹部候補として目されていたメンバーが含まれていないかだけでも確認を行う必要がある。各拠点にどのような従業員が所属しているか知りようがない場合、そのようなリスクを加味した上で割り切れるかどうか判断する必要がある。
こうした先を見越した入念な準備を怠らなければ、複雑なディールであっても、初速を速めてクロージングに持っていけるはずである。自社にM&Aのワークフローやプレイブックをお持ちであれば、次回ディールの際には、確認事項を見直してみてはいかがだろうか。


 

執筆者: 柴山 典央 (しばやま のりお)
グローバルM&Aコンサルティング コンサルタント