「人は石垣、人は城」とは武田信玄の言葉だが、今欧米を起点として、企業の戦略実行の基盤となる人的資本について、その情報を各企業内にとどめることを良しとせず、国際標準に則った情報管理・公開を求めていく動きが急速に広まりつつある。
ISO(International Organization for Standardization:国際標準化機構)が1990年代半ばに環境マネジメント標準を打ち出した時、または2010年にソーシャル・レスポンシビリティについてのガイドラインを発行した当時、そんなことまで標準化するのかと驚かれた方もいたのではないかと想像するが、現在の両者の国際社会経済における存在感は、改めて言うまでもなく大きいものとなっている。そのISOが、ソーシャル・レスポンシビリティのガイダンス文書の発行の翌年、2011年にテクニカルコミッティであるTC260を立ち上げて着手したのが、人材マネジメント領域の標準化であった。
TC260は既に採用や要員計画、ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)といった10を超す人材マネジメントのISO標準を発行しているが、その中でも特に注目を集めているのが、企業の人的資本に関する情報管理・開示のガイドラインISO30414(2018年発行)である。ISO30414自体は強制力を伴わないものであり、あくまでもガイドラインという形をとっている。しかし、ドイツをはじめとしたEU各国の大手企業が既にISO30414に準拠した各種HRレポートの公開を行っているほか、2020年11月からは米国証券取引委員会(SEC)が上場企業に対し、人的資本の情報開示を義務化するなど、欧米のステークホルダーを中心に、急速にデファクトスタンダード化が推し進められている状況であるといえるだろう。
その内容はどのようなものか。ISO30414は以下のように、対象を大企業と中小企業の2パターンに分けながら、人材マネジメントの11領域におけるメトリクス(測定指標)について情報管理・開示のガイドラインを示している。
Human capital areas and metrics for reporting (ISO30414のメトリクスより一部抜粋)
公開推奨となっている指標を見てみると、まず従業員当たりEBITやHuman Capital ROI(人件費を除いた収益に対する人件費の割合)といった生産性指標を投資家目線で判断できるよう求めていること、そして労働安全やダイバーシティ、人材育成といったソーシャル・レスポンシビリティに関する指標を丁寧に公開するように求めていることが分かる。
より注目に値するのは、このガイドラインが、各企業が情報公開をスムーズに行うため、そして事業戦略に基づいた人材マネジメントの実行を進めるために、内部(=非公開)で管理・モニタリングすべき人材マネジメントの測定指標を詳細に設定している点だ。例えば、自社の戦略的事業領域において従業員が必要なコンピテンシーを持っているのか、経営層、事業部長層のサクセッションがどれだけ有効に実施できているか、3年後、5年後のサクセッサー候補が社内にどれだけいるのかなどが挙げられる。
これら標準化への対応のあり方を述べる前に、欧米各国が人的資本の情報管理・公開についての国際標準化を推し進めているのはなぜか、を改めて考えたい。企業がこれまで個別に行ってきた人的資本の情報管理の高度化を議論し、そのガイドラインを丁寧に公開しているのが、ただの向上心・親切心からだと勘違いしてはいけない。右手で握手しながら左手で殴り合うのが外交であるといわれるが、国際標準の策定もまた生き馬の目を抜く競争の世界であることは、特に今、環境マネジメント指標や脱炭素化に悩まされる製造業経営者の多くの方が痛感しているのではないだろうか。
欧州委員会(EUの政策執行機関)の政策討議資料や、その人材マネジメント指標を見てみると、EUが人材マネジメント指標を、あくまでも環境マネジメント/ソーシャル・レスポンシビリティの変革と地続きの変化として推進していることが分かる。彼らは、新しい環境規制をグローバルスタンダードとし、その変化に対応するためには大掛かりな産業単位でのスクラップ&ビルド、そして各産業・企業においても厳しいトランスフォーメーションが求められることを理解している。その上で、変化のイニシアティブを取るとともに、各企業・産業ごとの人財(Human Capital)の状況を正確に把握し、域内の人材の再配置・リスキル・アップスキルを半ば強制的に進めることで産業の大転換に備えようとしているのだろう。実際、ISO30414は産業ごとに今後重要な指標となる職種郡やコンピテンシーを共通化することを推奨しており、EUでも様々な産業ごとに要員・スキルの将来変化を定義することが試みられているようだ。
さて、このような欧米各国のルールメイカーとしてのしたたかさをふまえ、今後の人材マネジメントの国際標準化進展とどのように向き合っていくべきか。まずやってはいけないのが、国際標準に則った情報開示の推進を焦るあまり、人事部/コンサルタント任せでの表面的な測定指標の収集や、中身を伴わない成果導出を進めることである。これでは自社にとっての国際標準化対応は、不要なエクセルワークに頭を抱える社員を生むだけ、単なるコスト増と競争力低下を招くだけになってしまう。
大切なのは、自社が今後どのようなビジネス上のトランスフォーメーションを実現していかねばならないのかを認識し、そのために必要な切り口、測定指標に基づいて人材マネジメントを推進していくことである。もちろん、このためには、こうした人的資本の議論をCEO/CHROをはじめとした経営陣がイニシアティブをもって進めるとともに、取締役会による適切な監督・モニタリングが行われることが欠かせない。これらの推進のあり方については、経済産業省の人材版伊藤レポート(2020)に詳しく解説されているため、ここでの深い言及は行わないが、つまりは、表面的な対応ではなく、自社の成長に向けた本質な議論・変革が求められているのである。標準化の移行期間であるからこそ、全てを無理に揃えるのではなく、ISOや欧米各国のHRレポートで具体的に示されている指標が自社にとってどのような意味を持つのかを考え、優先すべき指標の設定を進めていくべきだ。
多くの日本企業においては、ジョブ型雇用やポジションごとの管理が前提となっているガイドライン上の一部の測定指標が議論のハードルとなり得るかもしれない。しかし、そうした本質的な雇用のあり方の変更が自社にとって必要か、必要でないのかといった議論にも、国際標準化という外圧を逆手にとって、この機会に腰を据えて臨むことができるのではないだろうか。
政府・業界団体においては、欧米各国の取組みのベンチマークをふまえ、産業別の本質的な競争力向上に資する、人的資本情報管理のサポートをこれまで以上に積極的に推進すべきだろう。残念ながら、現在日本は33カ国から構成されるTC260の推進メンバーには入っておらず、オブザーバーにとどまっている(G8で推進メンバーとなっていないのは日本のみ)。既に出遅れてしまっている状況ではあるが、挽回に苦しんでいる環境マネジメント指標や脱炭素化などと同じ轍を踏んでしまわないことを期待したい。